2007年11月21日

ファトヒさん、自らを語る

 ビラやWebにも、ファトヒさんの紹介を簡単に載せていますが、もうちょっと知ったほうが話を聞きたい気持ちも深まるかと思います。
 
 ということで、来日するにあたってファトヒさんが語った、セルフ・ヒストリーについてのみ、先行的にお伝えしたいと思います。その他のお話は、当日のお楽しみに……

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 私は、1967年に、ヨルダン渓谷北部のバルダラ村という小さな村で生まれました。

 12歳になるまで6キロ離れた学校まで通っていました。夏も冬も朝早く家を出て、夕方に家に帰りました。その後、高校卒業後、ヨルダンの大学に進学し、司書と通訳の勉強をしました。さらにその後、アメリカのオンライン大学で勉強を続けました。アルクッズオープン大学でも勉強しました。

 そうして、9年間パレスチナの外で勉強し、働いた後、1994年にパレスチナに帰りました。当時、オスロプロセスが始まっていましたが、それは人々を満足させるものではありませんでした。

 帰国後、私は自分のコミュニティで働きはじめました。家の農地があり、海外での経験があったこともあり、コミュニティ活動を始めました。まず、パレスチナ農民組合を作りました。この組合は、自治政府に認可された、北部ヨルダン渓谷で最初の農民組合の支部となり、私は組合の議長になりました。さらに、私は、村の評議会議長、地域評議会議長になり、2006年まで勤めました。

 1994年から2006年にかけて多くのパレスチナの市民運動に関わり、地域のために活動することが、私の生活の中心となりました。

 1996年、私たちは日本からごみ収集車を受け取りました。それはジェリコ以外のヨルダン渓谷の村で最初のごみ収集車でした。村の中で誰も車を運転しようとしなかったので、村の評議会のメンバーで車を運転することにしました。私が車を運転し、他の2人のメンバーが村のごみを収集するのを手伝いました。私たちは3ヶ月間働きました。

 その後、ストップ・ザ・ウォール・キャンペーンに加わりました。トゥルカレム地域で壁の建設が始まったとき、一人の人間として、このことは非常に大きな問題だと思いました。最初、「壁」の計画を聞いたときは、この計画はうまくいかないだろうと思いましたが、実際に「壁」の建設は始まりました。そこで、私たちはキャンペーンを始め、メディア、デモ、国際社会への呼びかけなどを行いました。「壁」によって、まさに屋根のない監獄に人びとは閉じ込められています。私はすべての人が「壁」に反対するべきだと思います。なぜなら、「壁」は人間性・国際法・自然の摂理に反するものです。……


posted by in東京 at 00:19| ファトヒさんについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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